<伊藤清彦の経歴> |
1968年 | A級ライセンス取得、四輪自動車にてジムカーナ参戦 (大磯ロングビーチ、ドリームランド、SSP、千葉白里自動車学校、西武園、武蔵野サーキット) |
1970年 | ライセンス更新忘れ |
1971年 | A級ライセンス再取得 自動車好きの鵜川淳氏を弟のように可愛がり、車三昧の日々を共に過ごす |
1973年 | 四輪自動車レース界にデビュー |
1978年 | 下記シリーズにて最優秀選手賞を獲得 |
1980年 | 日産レーシングスクール卒業 No. 63 マイナーツーリング(日産 サニー TS仕様)にて常に上位入賞 |
1981年 | 全日本富士500 kmレース大会に出場〔開催日:6月6日(土)・7日(日)〕 当時日本のレース界を牽引する東名自動車の鈴木社長よりレースの参加依頼を受ける。 パートナードライバーはラリー界から本格的にレース界へ参戦する関根基司選手 (PMC・S会長)だった。東名自動車からカヤバ東名サニーで出場、「日産サニー エクセレント」 Bクラスで2位 表彰台を獲得。 |
1982年〜 | 全日本富士500 kmレース大会、全日本富士1000 kmレース大会に出場 また呼びかけにより 萩原光選手, 小島啓二選手、相葉文男選手、鈴木守選手、早乙女実選手らもコンビを組んで出場してくれた ※ 当時はカートからレースに参加する選手が少なく、本橋敏生選手、佐野和志選手など数名しかいなかった。しかし現在では当然のごとく、世界ではもちろんのこと、全日本トップドライバーの90%以上がカート出身者となっている。 日本のレース界を大きく変える分岐点となった。 |
1986年 | ミラージュ インターナショナル ラリーアート カップにてシリーズチャンピオンを獲得 日本代表として5年連続でマカオグランプリに招待出場 2年連続で米国ラグナセカ サーキット招待出場、両年ともに最速ラップ賞を連続受賞 |
1986年以降 | 三菱自動車のワークスドライバーとして、グループAに三菱スタリオンで参戦 これらの実績をかわれ、各自動車メーカー、各タイヤメーカー(ブリヂストンタイヤ RE71S、RE61S、RE610Sの開発)、各部品メーカーの開発にも携わる。 日本自動車連盟(JAF)モータースポーツ専門部会 副部会長を歴任し、副部会長着任時代には現在一番盛り上がっているナンバー付きレース(ヴィッツ、ロードスター、86レース等)開催を提案し実現させた。 当時はナンバー付きの自動車がサーキットを走るということはとても考えられず、サーキットを走行するような自動車が公道を走ることは非常に問題だとされていた。 そのため大多数の部会委員がナンバー付き自動車がサーキットを走ることに難色を示していたが、伊藤清彦及び塩澤部会長はそれら反対を押し切り、モータースポーツの発展には欠かせないということを力説。 様々な懸念事項を払拭するために時には何度も陸運局まで出向き、どうすればサーキットを走行した(走行するような)自動車が公道を走れるか等、自ら交渉、調整することでナンバー付きレースを実現させた。 またその他にも同時期にモータースポーツ界の発展へ貢献すべく、様々な提案を行い実現させてきた。
※ 日本自動車連盟(JAF)モータースポーツ専門部会委員に小出久美子 氏(KUMI−VICIC)を塩澤部会長に提案し賛同をえられ、女性として初めてのモータースポーツ専門部会委員が誕生したのもこの時期である。 |
1997〜1999年 | JAF公認 競技場 須賀尾ダートサーキットの誕生、及び本サーキットでのJAF関東ダートトライアル選手権開催の実現を牽引、大いに貢献する |
近年では、新人育成のため若手の指導に力を入れている。 A級ライセンス取得講習会講師、各自動車メーカー主催レーシングスクールの講師、各JAF公認レース競技の審査委員長、及び競技長として全国に招かれるなど、多岐にわたり活躍し、レース界のみならず自動車業界全般に幅広く貢献している。 モータースポーツ界全体の発展、そして選手と主催者がともにエンジョイし円滑に競技を行うために、支援、援助等の架け橋的な役割をする団体でもある「ツーリングカー・ドライバーズ・アソシエーション・ジャパン(TDAJ)」の代表を務める。またBay Side(JAF公認クラブ)、IED(JAF加盟クラブ)の代表も務めている。 FIAドライバーズライセンス国際C、JAF審判員ライセンス、コースA1、時計A1、技術A1の各3種A1級の資格を保有。 今年でモータースポーツ歴55年、日本レース界を牽引し、現在でも多くの後輩に支持、尊敬され、慕われるステディな貢献者である。 |